2010-03-02(火) 18:29:12
 『お客様からの通信』盛岡市 向中野の S さんから
親子二代にわたっての岩泉純木家具さんのファンです。
木のぬくもりと職人の方の丁寧さ、さらに 飽きの来ないデザインが魅力です。
今回の商品も、家族全員 大満足しております。
ぜひ、これからも利用させて頂きたいと思っています。 頑張ってください。

2010-03-03(水) 09:08:02
 『寅年に虎斑を楽しむマガジンラック』

 柏(かしわ)の大木から採れた 虎斑の杢(もく)が顕著に表れた マガジンラック 7個限定で 製作いたしました。
盛岡材木町の ショウルーム 『ギャラリー純木家具』でお求め下さい。

2010-03-03(水) 09:10:19
 『寅年に虎斑を楽しむマガジンラック』

 虎斑の 写真 アップです。

2010-03-04(木) 09:31:41
 『純木からの家具デザイン』盛岡展

 岩泉純木家具と千葉大学デザイン学科とは、2004年から
産学連携によるデザイン開発に取り組んで参りました。
この6年間の成果発表会を開催します。

【会 期】2010年3月8日(月)〜10日(水)
【会 場】エスポワールいわて
【住 所】盛岡市中央通1-1-38 TEL:019-623-6251
【展示内容】
     2004年〜2008年「純木家具デザインコンンペ」入賞作品の展示、
     2009年度3年次カリキュラムにおける連携開発商品の展示、
     岩泉純木家具オリジナル商品の展示。
 千葉大学のデザイン教育に協力し、その成果としての新規デザインの中から我が社の新商品を発掘・開発していく産学連携の試みです。2004年から6年間の成果を発表します。

2010-03-13(土) 13:37:37
 【佐々木さんの山の樹】
 当工房の職人 佐々木さんが「山の樹を伐るから買ってくれないか」という。
「お金が要りようなのか?」と聞くと「いや、栗や胡桃の樹に ここ数年実が成らなくなった 老いたためと思われる」「では、今が樹の材積が最大なんだな。これ以上置くと腐れが入って減って材積がいくということなら、切ったほうがいいかもね」
 2月6日 土曜日 ちょうど厳しい寒波が続いたピークの日、朝から約束の場所に向かいました。
ここから佐々木さんの住む集落への分かれ道 “通行止め”の看板が立っていた。それを避けて奥へと走った。

2010-03-13(土) 13:42:14
 【佐々木さんの山の樹】
 
 この辺りが 彼の山。
さして大径木というほどではないが、ナラ、クリなどが立っている。

2010-03-13(土) 13:52:24
 【佐々木さんの山の樹】

 栗の立ち木だ。
適度に育った健康な木目であれば、2〜3枚矧ぎのテーブル、ベンチ用。
木目が細かく、素性の良い部分ではチェスト、カップボードなどの箱物に向けることができる。

2010-03-13(土) 14:01:48
 【佐々木さんの山の樹】

 水目(ミズメ)の立ち木。
樹皮が ガサガサッとして、悠々と立っている。
一目見て 水目、あるいは 水目桜 である。
非常に硬く、重い材だが、色調が桜色をしていて、なんとも やさしい色気がある。
 運がよければ、虎の毛皮のような(柏や楢の虎斑とは違い、大柄な斑が出ることもある)銘木も出るかも。

2010-03-13(土) 14:14:43
 【佐々木さんの山の樹】

 前ページの栗、水目の立っているところから急斜面を降りて沢に降り、胡桃の一番太い立ち木を見た。それほど弱っているとはおもわなかったが、佐々木さんは、とにかく何年も前から実が成らないので、必ず弱っている と、判断したようだ。
寒さが厳しくて、デジカメのシャッターが降りず、写真は断念。

2010-03-17(水) 14:34:57
 【佐々木さんの山の樹】
 厳冬でも凍ることなく湧き出る泉。
佐々木さんの水道は、ここから引いている。
下流域 田野畑村の沼袋地区の水道源にも なっているそうだ。
(もっと良く見えるように撮ろうと思ったが、寒さが厳しく、シャッターが作動しなかった)

2010-03-17(水) 14:43:49
 【佐々木さんの山の樹】
 畑に近い場所に立っている 天然赤松。
かなり太いが、樹齢150年くらいかな? と推定。
けっこう白太が広いのではなかろうか。
まったく元気で成長力旺盛 と見た。「まだまだ、もう百年くらい経ってから伐れば、赤みが張って見事な天松(天年松)になるだろう」と、伐るのは諦めてもらった。

2010-03-17(水) 14:48:36
 「佐々木さんの山の樹】

 沢の奥に 胡桃の木が風で倒れている というので、
のぼり始めた。
樹皮が はなはだしく剥がされた樹がある。
毎年、春になって冬眠から覚めた 月の輪熊の仕業だそうだ。

2010-03-17(水) 14:52:12
 【佐々木さんの山の樹】

 あれだ、風で倒れたクルミの樹は
あまり太くは無いが、役には立ちそうだ。
ただ、倒れてから 二冬目だそうで、虫が入っていなければいいが。

2010-03-18(木) 09:28:11
 【佐々木さんの山の樹】
 ここから300mほど 奥に、直径1mくらいの栃の樹があるということで、膝までの積雪の山を上った。
確かに栃もあったし、ケヤキ、ナラ等もあったが、なにせ、カメラのシャッターが利かない。
山に行くから と、前夜 充分に充電しておいたのだが、氷点下15度以下になるとダメなようだ。こんなに冷えたときに、携帯電話はどうなんだろう? とも考えた。もっとも、自分は都会に行くときでもなければケイタイは身につけないのだが。
変形のイタヤカエデだけ、撮れていた。

2010-03-18(木) 09:55:33
 【佐々木さんの山の樹】
 この山は、地図には『野辺山』と書かれている。地元では『蝦夷森』と呼ぶ。この山は『蝦夷舘』と言われる。
佐々木さんの家には、明治生まれのお祖父さんが、北海道旅行に行って、アイヌの友人たちと記念写真を撮ってきた写真が何枚もあるそうだ。ということは、明治維新で江戸時代が終わってから数十年経っても、この辺にはアイヌ民族が暮らしていたのだろう。もちろん、佐々木さんは『佐々木源氏』だし、お祖父さんは近くにある本家(生家)から分家したわけだが、蝦夷舘に暮らしていたアイヌの子供たちと一緒に遊んでいたのだろう。
もっとも、古くは平安時代 坂上田村麻呂がエゾ征伐に15年間も遠征したり、11世紀頃宮城県多賀城から朝廷の征夷部隊が派遣されても「家は在るが、人は山々の洞窟に隠れて、全く見えないので、家々に火を付けて帰ってきた」という記録にあるとおり、龍泉洞に代表される、無数にある鍾乳洞に一時避難しただけだったのだろう。

2010-03-18(木) 11:37:13
 【縄文民族】
 岩泉町の隣村 田野畑村にも アイヌについて興味深い話がある。
田野畑村 島越の人たちが北海道旅行に行ったとき「田野畑から来たんだって?」とアイヌの一人が寄ってきた。「家のお祖父さんが亡くなるとき『何か言い残すことはないか?』と尋ねたら『田野畑のハイペの垂水(たるみず)の鮑(アワビ)を食いたい』と言って亡くなった」という。
そのお祖父さんも子供時代に田野畑村で暮らしていて、北海道に移ったんだ と思われる。
東北の地名には、アイヌ語がたくさん残っている。岩泉の象徴的な山“宇麗羅”うれ〜ら と呼ぶ。夏に霧にすっぽりと包まれて姿が見えない日がある。配羅(はいら)、高須賀(たかすか)、赤須賀(あかすか)、尻高(しったが)、女辺(おなッぺ)、等々、ヤマト言葉では、意味が理解できない地名がいっぱいある。

2010-03-21(日) 16:38:53
 【徳丹城の栗の木】
 先週の日曜日(3月14日)電話が鳴った。
盛岡の木工好きの F 氏からだった。「工藤さんですか? いや〜居て良かった。実は、矢巾に大きな栗の木があって、それを今日切り倒すという話があるんだが」という。
「え、今日?」急な話でビックリ。詳しいことは、同僚の Tさんに連絡すれば判る」ということで、電話してみた。
T 氏は「今、切り倒したところだ。ケイタイで写真を撮っておいたので、送りますよ!」という。ほどなく、インターネットでメールに添付して写真が送られてきた。
今にも倒れる寸前の写真。
「これは貴重な写真だ。トレーサビリティ、つまり出処の明確な材料としての証拠になるものだ」将来、この木で作った家具の購入者に祈念として進呈する何よりの写真になる」
紹介してくれた T 氏の隣組の家の木だという。

2010-03-21(日) 16:53:31
 【徳丹城の栗の木】

 ご覧のように、どこからも太陽が当たる広い空間で育ったため、大きく枝を張った栗の木なので、思い通りの方向に切り倒すのが困難で、近くにいたパワーショベルに応援を頼んだのでした。

2010-03-21(日) 17:13:38
 【徳丹城の栗の木】

 栗の木に登った人が、パワーショベルから延ばしたワイヤーロープを栗の木に結び付けている。
栗の木の根元は、受け口が切り込んであり、追い口も かなり切り込んである。
間もなく 引っ張って 倒す準備ができている。

2010-03-22(月) 13:06:22
 【徳丹城の栗の木】
 平成22年3月19日(金) 快晴。 空は飽くまでも青く、日差しも眩しいくらい。気温も心地よい日だ。
現場に行ってみて、何だ この有様は!。 パワーショベルで引き倒した栗の木が、そのまま バサっと倒れている景色を想像していたのだ。
切り落とした枝條まで、一緒に盛り上げて有る。

2010-03-22(月) 13:12:55
 【徳丹城の栗の木】

 このままでは玉切りすることができない。
一刀両断できるような長いチェンソーは、20年前であれば有ったのだが、国有林に大木が無くなってからは、どこでも持たなくなった。
長さ60cmのバーなのだ。
両側から切り込まなければならないため、これらの山から長い幹の全体を引っ張り出さなければならない。

2010-03-22(月) 13:18:02
 【徳丹城の栗の木】

 こちらの1本は、中心部しか腐れが見えない。ただ、目回(めまわり)がある。60年位前に異常な寒波があったのだろう。その年の樹皮の下の樹液が凍り、膨張して、年輪に沿って割れてしまった。
元口から どこまで割れているかが、利用上は問題だ。

2010-03-22(月) 13:28:49
 【徳丹城の栗の木】
 これが、切り株。 2本立ちだ。3本立ちだったそうだが、この家のご主人が、7〜8年ほど前に 1本切ったらしい。
1本の栗の実から枝分かれしたものではない。最初から2〜3本植えたものだろう。
この家の初代が、本家から分家して、ここに家を建てた。そのとき子供が5人ほどいて、他人の栗の実を拾って食べては申し訳がない。それで、栗の苗木を植えたのだそうな。
110年前に分家したということで、年輪を数えて見たら、その通りだった。樹齢110年の栗の木である。

2010-03-22(月) 13:33:52
 【徳丹城の栗の木】
 
 ここで、再び、パワーショベルのお出ましだ。近くの田んぼで作業をしていた重機のドライバー兼社長にお願いして、残材の盛の中から引き抜いて、吊り上げてもらった。

2010-03-22(月) 13:35:59
 【徳丹城の栗の木】

 吊り下げたまま、農道を都合の良い位置まで移動する。

2010-03-22(月) 13:37:34
 【徳丹城の栗の木】

 もう一本も、同様に移動してもらう。

2010-03-22(月) 13:38:52
 【徳丹城の栗の木】

 やれやれ、これで 2本とも移動完了だ。

2010-03-22(月) 13:42:03
 【徳丹城の栗の木】

 1本は、元口は、ほとんど全体が腐れている。
このまま立っていたら、強い台風がくると、倒れて周辺に被害を及ぼす恐れがあった。切り倒して正解だったんだなあ。

2010-03-23(火) 08:26:10
 【徳丹城の栗の木】

 元枝を、太さの半分ほどまで切る。

2010-03-23(火) 08:29:47
 【徳丹城の栗の木】

 ここで、楔を2本 上から打ち込み、
切り落ちる枝の圧迫でチェンソー刃の回転を止められないよう、処置しておく。

2010-03-23(火) 08:31:34
 【徳丹城の栗の木】

 ここで、幹の元玉1本目を切る。

2010-03-23(火) 08:32:38
 【徳丹城の栗の木】

 その先の 2番玉を切る。

2010-03-23(火) 08:33:42
 【徳丹城の栗の木】

 元に腐れがあった方を切る。

2010-03-23(火) 08:35:17
 【徳丹城の栗の木】

 楔を2本打ち込んで、チェンソーの回転が止められるのを防止。

2010-03-23(火) 08:36:28
 【徳丹城の栗の木】

 その先は、3.8m 飛ばして玉切り。

2010-03-23(火) 08:37:16
 【徳丹城の栗の木】

 枝を払う。

2010-03-23(火) 08:40:37
 【徳丹城の栗の木】

 栗の木の持ち主の御夫人 記念写真。
家の屋敷に110年 立って、家族を見守ってきた栗の木、
これで、お別れだ。

2010-03-23(火) 08:43:35
 【徳丹城の栗の木】

 折りしも、そらはどこまでも青く、温暖で、庭の梅ノ木も つぼみが膨らんで、今にも咲きそうだ。
実際、作業を終えて、引き揚げるときには、一輪 開花していた。

2010-03-23(火) 08:53:24
 【徳丹城の船着場の栗の木】
 ここで、徳丹城について 触れておきましょう。
この辺は、現在は「徳田」と呼ばれている。その昔、律令制の時代に、古代柵があった跡地だ。この芝生が生えている白っぽい部分は、古代には小さな運河だったという。
北上川を上がり下りする船が、支流を遡り、徳丹城に物資を運ぶ。
ここが、船着場だったという。これから、その徳丹城を復元・整備する事業が始まるそうだ。

2010-03-23(火) 09:07:56
 【律令制最後の古代柵・徳丹城】
 徳丹城は、西暦812年頃 時の征夷大将軍・文室錦麻呂によって造られた律令制最後の城柵である。
雫石川の水害で被害を受けた「志波城」(現在は盛岡市大田)を解体し、移築した。造営工事は、2000人もの鎮兵が動員された。
城名は、元来、「トクタン」ではなく、「トコタン」と呼ばれていたが、後に「徳丹」の漢字が当てられることによって「トクタン」として定着したと見られる。
史跡の所在地である「徳田」も、同義であろう。「トコタン」は、アイヌ語に由来するという説がある。(以上は、矢巾町教育委員会の資料から引用)

2010-03-23(火) 09:20:49
 【古代柵・徳丹城の傍に南部家の分家】
 この屋敷林は、盛岡南部家の一族の分家・川村仁佐衛門?の屋敷だそうだ。
この辺一体の領地を管轄する領主であった。
栗の木を造材する間、説明を伺った短い時間だったが、この栗の木にまつわる物語として、将来、これで出来た家具を持つ人に、アルバムを祈念に進呈しようと思ってます。

2010-03-29(月) 09:14:46
 【徳丹城の栗の木】

 3月24日 栗の木運搬の日です。
まず、1本目積み込み。

2010-03-29(月) 09:17:32
 【徳丹城の栗の木】

 2本目 吊り上げ。

2010-03-29(月) 09:20:49
 【徳丹城の栗の木】

 3本目 吊り上げ。
これが、元腐れの木です。

2010-03-29(月) 09:21:56
 【徳丹城の栗の木】

 4本目は、枝が一杯出ていた長材です。

2010-03-29(月) 09:22:57
 【徳丹城の栗の木】

 積み込み終わって、ワイヤーを締めて。

2010-03-29(月) 09:25:18
 【徳丹城の栗の木】

 これで、積み込みは完了しました。

2010-03-29(月) 09:29:41
 【徳丹城の栗の木】

 工房に到着。トラックから降ろして、製材を待っています。
どの丸太にも、多少の差はあれ、腐れが入っているのが見えます。

2010-03-30(火) 15:18:06
 【お客様からの通信】 仏壇SR-300お買い上げの 盛岡市 Sさん
 親子2代にわたっての岩泉純木家具さんの大ファンです。
木の温もりと職人の方の丁寧さ、さらに飽きの来ないデザインが魅力です。
今回の商品も家族全員 大満足しております。
ぜひ これからも利用させていただきたいと思っています。頑張ってください。

2010-03-30(火) 15:48:21
 【お客様からの通信】フリーテーブルとベンチお買い上げの 長野市の Mさん
 素敵なテーブル有難うございました。新築の家にぴったりなのはもちろん、温かみが違います。
値段は高い物ですが、育った木を生かし、自然な形で職人さんに渡り、世界でひとつだけのテーブルは替えがたい物です。
丁寧な仕上がりを見れば職人さんの心が伝わってきて、手で触って触れたくなる、落ち着く!と いった感じで癒されています。
家族の集う大切な場所だからこそお願いしました。1ヵ月半待ちに待った家具は本当に大切な宝物です。
美味しい料理を作って この家具とともに成長していきたいし、大切にしていきたいです。どうもありがとうございました。

2010-03-30(火) 16:00:33
 【お客様からの通信】フリーテーブルお買い上げの盛岡市の Tさん
 従来から木製のものは好きでしたが、
今度購入したテーブルは上品で、私どもの部屋にぴったりの規格になっており、大変気に入っております。
 やはり、木製品は温かみがあり、ほっとするものがあります。
更に素晴らしい製品を期待しております。
有難うございました。

2010-03-30(火) 16:11:23
 【お客様からの通信】 クルミのフリーテーブルお買い上げの 西東京市の Sさん
 夫婦で雪見をしたいと選んだ地が盛岡の温泉でした。
材木町通りを歩いていたら、家具のギャラリーが有り、一見のつもりで中に入りました。
まず、木の香りにホッとして、一枚もので年輪を生かしたテーブルが優しい感じで気に入りました。
帰宅しても忘れられず、電話してしまいました。
今、届けられたテーブルは、私の一番好きな居場所になりました。
大事に使わせていただきますね。