 |
『大災害を契機に、いわての理想の未来像を』(岩手経済研究 2011.7より抜粋)『小川 彰 岩手医科大学学長』の巻頭言。 『東日本大震災』の命名は大間違いだ。本県で死者・行方不明者約8,000名に対し、怪我人が165名に過ぎなかったことがこれを裏付けている。すなわち、今回の災害は地震災害ではなく津波災害なのだ。国が名づけた命名に「大津波」の言葉が無いことは、現場を見ないで、現場から遥かに遠い「霞ヶ関・永田町」で全てを決めてしまう 国民から乖離した政府の姿勢そのものだ。 災害の大きさが明らかとなり、様々な物資不足が問題となってきた3月14日の月曜日、私自身は文部科学省、厚生労働省はじめ多くの省庁の現場担当者と連絡を取り、現場の窮状を訴えた。各担当者は快く対応を約束し様々動いてくれた。しかし(何処からの圧力か)次の日突然連絡が入った。その内容に耳を疑った「県知事から首相官邸 菅 直人宛の正式要望書が無ければこれ以上動けない」と言う。「現場は戦争状態にある。弾が飛び交っている中、平時のように書類を上げて来いとは何事だ!」と怒ってみた所で事態は解決しない。直ちに県庁に趣き、県経由で要望書を知事名義で送ってもらった。しかし、この要望書に沿った支援物資(医薬品)が届いたのは、更に2週間が経った後であった。 この間のエネルギー不足は目を覆う状態だった。盛岡市内から自動車が消えた。避難所では灯油不足で住民は劣悪な環境に置かれていた。このような状況の中、3月14日夕、海江田経済産業大臣が「石油国家備蓄を放出し被災地にエネルギーを送る」という画期的な記者会見をした。わずかな灯りが見えたように思った。しかし、タンクローリーや石油列車が動き出したのは、その1週間後であり、被災地への到着は更に遅れることになり、希望は打ち砕かれた。 自然災害の脅威は如何ともしがたい。しかし、災害発生直後の危機管理能力の欠如は被害を何倍にも増幅させる。増幅された被害は天災ではないまさに「人災」である。 国の初動の遅れは何故生じたのかをしっかり検証し今後の糧としなければならない。しかし、国に責任を押し付けるばかりでなく、我々個人個人が今後この経験を生かし、何をしなければならないのかを真剣に考える良い機会となった。また、災害があったからこそ復興、再生、新生がある。これを機会に「いわての理想の未来像」を白いキャンパスに新しく書き直す事こそ必要なのではないかと思う。
|